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1.長崎の部落史を歩く

ねらい  長崎の部落が移転する跡をたどり、人々の生活や、歴史的な意味、その役割に思いをめぐらす。
コース 崇福寺 ⇒ 大音寺・晧台寺 ⇒ 鹿解川 ⇒ 眼鏡橋 ⇒ サン・フランシスコ教会跡 ⇒ サント・ドミンゴ教会跡(資料館) ⇒ 長崎会所跡 ⇒ 筑後町通り ⇒ 26聖人殉教地(西坂公園) ⇒ 西坂小学校周辺 ⇒ 中馬込小学校跡 ⇒ 聖徳寺 ⇒ 浦上青年会館跡 ⇒ 涙痕の碑(−銭座集会所)
所要時間  3時間30分

○ 長崎の繁華街浜町から山沿いの寺町には、浄土宗大音寺・曹洞宗皓台寺というお寺があります。この坂は、両寺の間を通る坂道で、弊振坂といいます。その昔、長崎の領主長崎氏がこの場所で、弊(ぬさ)を振って戦をしたとのことでこの名前が付けられたといいます。江戸時代初頭、ここには、皮屋町という履物を作る職人が住む町がありました。下の中島川に下っていくと、毛皮屋町という鹿皮を扱う町もありました。当時、長崎には、朱印船商人やスペイン・ポルトガル、中国の船が頻繁に出入していました。彼らは中国や東南アジアで絹や砂糖、薬種などを廉価に仕入れ日本に運んできました。また、鹿や牛、鮫などの皮革類も大量に輸入されていました。皮屋町や毛皮屋町は、輸入された皮革を加工・製品化し、また、多くは大坂へと送られる仲買もしていました。1648年、両寺は奉行に増地願いを出し認められ、皮屋町は、現在の西坂の地へ移り住むようになりました。(写真は、「弊振(へいふり)坂」)

○ 筑後町町通りを歩くと、本蓮寺というお寺があります。正面入口には、「サン・ラザロ病院サン・ジョアン・バウチスタ教会」と刻まれた石碑が建っています。ラザロとはハンセン病のことで、キリシタン時代、宣教師たちは孤児の救済や福祉活動に従事し、病院や施設を作ります。長崎・平戸・五島・豊後・山口・大坂・京都・江戸など全国各地にハンセン病患者(重い皮膚病を含む)を手当する病院を作りました。長崎には二ヶ所あったとされています。(写真は、「本蓮寺」正面入口)

○ 皮屋町が移転した地の港に面した側に、26聖人殉教地があります。背後には記念館が建っています。1597年、京・大坂で捕らえられた宣教師たちは一ヵ月かけて長崎に送られ、この地で処刑されました。当時、長崎はキリシタンの町であり、その後、元和の大殉教と称される弾圧を経て、この地で600名余りのキリスト教徒が処刑されます。1862年、この26名は時の教皇ピオ九世に列福されて聖人とされました。この地にあった皮屋町は、1718年再度浦上は馬込に移転していきます。町民は、幕府直轄領の「えた」身分として皮の製造・皮革製品の製作、今でいう警察的な仕事などに従事していました。時津街道から長崎入りする人は、必ずここを通っていかなければなりません。その意味で、この場所は長崎の治安を保つために適した場所だったのです。(写真は、「26聖人殉教地」)

○ 明治4年のいわゆる「解放令」の後、皮屋町という町名はなくなり、この地一帯は馬込と呼ばれていました。旧皮屋町民は身分が撤廃されたことで、まず子どもたちの教育に力を入れます。当時のお金で4000円(現6000万〜1億)という巨費を投じ、中馬込小学校を建てます。レンガ造りの立派な学舎だったと、当時の教育資料は伝えます。またこの小学校は、新聞にも旧皮屋町住民の奮闘として取上げられています。明治30年代になってくると、部落に貧困化が襲い、また、周辺住民の差別が強くなっていきます。住民は、生活を守り差別をなくしていくために部落改善運動を起こします。中央の胸像は、その中心的な役割を果した人を称えて建立されました。(写真は、「浦上青年会館跡地」)

□ 1630年代の「長崎港図」が残されています。長崎の町並みは、港湾部を除いてその当時とほとんど変わりがありません。そして、何と歴史的な史跡の多いことでしょうか。キリシタンの町として建立された長崎には、多くのキリシタン史跡が残されています。また、町名には、町民の出身地が、どんな人々が集まったのか思いを馳せる事ができます。その一つに、江戸時代、皮屋町という被差別部落がありました。このフィールドワークは、その移転の後をたどる旅(時間)でもあるのです。なお、長崎平和資料館・26聖人記念館は、入場料が必要です。




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