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2.原爆・部落・キリシタン

ねらい  江戸時代の部落とキリシタン、近代以降の両者の歩み、原爆の惨禍等、歩きながら体験する。
コース  平和公園 ⇒ 聖フランシスコザベリオ堂跡 ⇒永井隆記念館 ⇒浦上天主堂 ⇒ 爆心地公園(松山町) ⇒ 山王神社 ⇒ 坂本町国際墓地 ⇒ 真宗青年教会跡 ⇒ 浦上町原爆犠牲者慰霊塔 ⇒ 聖徳寺(⇒ 浦上街道 ⇒ 中馬込小学校跡 ⇒ 西坂小学校前 ⇒ 26聖人殉教)
所要時間  約3時間

○ 長崎市の北部一帯を、今でも浦上と呼びます。幕府時代、長崎は四つの地域に分かれ、浦上川をはさんで西側を浦上淵村、現在の長崎駅から北東部を浦上山里村、港部を長崎、現在の伊良林・鳴滝方面を長崎村と呼んでいました。コースは、浦上山里村に当たります。1945年8月の原爆投下は松山町でした。浦上(山里・淵村)の真中です。長崎原爆とされますが、より理解するためには浦上原爆と呼んだ方が、原爆のもたらした様々な影響を考えることができるのかもしれません。ちなみに、爆心地から1k以内で45年度中に死亡した比率は、行方不明を合せると実に95.1%に上ります。(写真は、「原爆落下中心碑」)

○ ご存知のように、幕府時代、浦上には「潜伏キリシタン」と称される人々が住んでいました。彼らは、明治初年「浦上四番崩れ」という事件により「旅」と称される流罪を経験しました。浦上に住む約3,500人の人々は、明治6(1873)年にキリシタン禁制の高札が撤去されるまで、西日本各地の藩(県)に預けられ、「旅」先では600人余りの人が亡くなりました。帰郷後も台風被害や赤痢・天然痘が流行し、重ねて苦難を味わうことになります。岡山に流されていた岩永マキは、フランス人宣教師ドロ神父を助け救護活動に当たり、孤児救済のため「浦上十字会」を組織し、社会福祉の礎を築きました。また、原爆で破壊された浦上天主堂は、1880年に浦上山里村庄屋屋敷を買入れ、1895年煉瓦造りロマネスク式大聖堂の建設に着手、20年後の1914年完成しました。被爆当時、2人の神父と数十人の信者が下敷きとなり、浦上信徒役12,000 の内8,500人が犠牲となったといわれます。(参考:『長崎県百科事典』)(写真は、「浦上天主堂」)

○ 原爆は、日本人のみならず多数の韓国・朝鮮人、中国人をも犠牲にしました。爆心地公園の一角に、「追悼長崎原爆朝鮮人犠牲者」と刻まれた石碑が建っています。裏側には、「強制連行及び徴用で重労働に従事中爆死した朝鮮人とその家族のために」とあります。正確には調査されていませんが、当時1万数千人の韓国・朝鮮人が被爆し、犠牲者は数千人、1万人との説もあります。また、現在の平和公園には被爆当時長崎刑務所浦上支所があり、収容者81人全員が犠牲に、この中に少なくとも46人の中国・朝鮮人がいたとされています。(写真は、「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼の碑」)

○ 幕府時代、この山里村には、「皮屋町」という被差別部落が存在しました。皮屋町は、江戸時代初頭、現在の寺町辺りにあり、西坂(1648年)、そして浦上(1718年)に移転させられました。彼らは、幕府直轄領の「えた」身分として、職務である皮の製造、製品化の仕事に従事していました。江戸時代初期、長崎には、鹿皮や牛皮などの大量の皮革類が輸入されていました。その商取引や加工のために彼らは活躍しました。また、今で言う警察的な仕事に従事していました。ちょうど長崎と浦上の中間地に位置した皮屋町は、市中に不審な人が出入しないか監視と見回りに当たりました。「浦上四番崩れ」では、キリシタン捕縛の任に当り、そのため、明治以降以降憎しみと差別が上塗りされました。しかし、彼らもまた、明治4(1871)年の「解放令」以降、旧「えた」身分に強制された差別を撤廃するために奮闘しました。当時のお金で4,000円という巨費を投じて、中馬込小学校という地域の学校を建設し、子どもたちの教育に力を入れていきます。また、明治の中期には青年会館が建設され、部落改善運動が行われました。また、1928年には長崎水平社も結成され、差別撤廃のため尽力しています。写真の「涙痕の碑」は、原爆後移転を余儀なくされた旧浦上町出身者たちが、原爆犠牲者を追悼するために建てた碑です。(写真は、「涙痕の碑」)

□ 浦上という地域は、最も長崎らしさを味合わせてくれるところです。これら被爆遺構、キリシタン史跡を歩きながら、平和や人権の意味を考え、到着地はキリシタン弾圧の出発点26聖人記念館にたどり着きます。途中、永井隆記念館・長崎原爆資料館・長崎平和資料館・26聖人記念館は入場料が必要です。−浦上を平和と人権の発信地に−




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